日々のあはい

貧乏人、本を読んで暮らす

壊れやすいから私たち

昨夜の菓子盆は雪の宿とたべっ子どうぶつ(チョコ)
そしてコーヒー、シュレーディンガー

お菓子の趣味が最近やたら渋い。ポテチの出番が激減した代わりに、味しらべハッピーターンより断然、味しらべ派)や海苔巻きおかきのような米菓を手に取りがちである。おかげでお菓子のストック籠がおばあちゃんちのそれ。まったく意識していないが、お菓子選びの最中にも健康志向が働いているのかもしれない。まあ美味しければなんだっていい。1日の摂取量を3分の1くらいに減らしはしたものの、仕事のあとの癒しであることに変わりはない。おばあちゃんち味(おばあちゃんちみ)のあるお菓子でオススメがあったら是非教えてください。

ところで写真の下にヌッと映っている本は、『生命とは何か』。言わずと知れたシュレーディンガーである。猫の日ということで再読をしてみた。ごめん嘘、猫の日は今思いついた。おととい読了した本の影響で、生命というものについてもう少しだけ考えてみたくなったのだ。

言うても何が書いてあるのか9割わからないのだが。こいついつも9割わかってねえじゃん?とそろそろお気づきの方もおられるかと思うがそっとしておいて欲しい。1割のエモを食って生きるタイプの変態なのである。ショーペンハウエルにしばかれそうな読書スタイルだな(『読書について』はいいぞ)。

そんなことより第6章、『秩序、無秩序、エントロピー』が好きだって話。すべての物質は、秩序ある状態から無秩序に向かって運動している。有名な「生物は負のエントロピーを食べて生きている」というやつである。

 生物体というものがはなはだ不思議にみえるのは、急速に崩壊してもはや自分の力では動けない「平衡」の状態になることを免れているからです。

 ……あらゆる過程、自称、出来事――何といってもかまいませんが、ひっくるめていえば自然界で進行しているありとあらゆることは、世界の中のそれが進行している部分のエントロピーが増大していることを意味しています。したがって生きている生物体は絶えずそのエントロピーを増大しています。……死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいてゆく傾向があります。

生物は、生命は、いずれ必ず迎えることとなる熱的死(エントロピー最大、無秩序の頂点に達すること)を拒むように生きている。代謝を繰り返し、何千億もの細胞の死を迎え、無秩序を排出して、新たに自分を作り直す。大きな死より先に小さく死ぬ、自然崩壊に先んじて自壊をし続ける(同時に生まれ続ける)、〈滅びの中の生成〉という在り方でもって私たちは生きている。

つまり私たちは端から、絶対的に堅牢で頑丈で強固な生命ではあり得ない。なんたって常にどっかが壊れている。フニャフニャの構造であるからこそエントロピーとかいう宇宙の大原則に、いつかは追い付かれるとしても抗いながら「ひとつの生命」をやっていけているのである。そういうワヤワヤしたところででないとやっていけない「私」とは一体どれほどのものだろうか?きっと「私」は、大きな大きな銀河より大きな川の流れの中に、ほんの一瞬だけ見えたようなあったような気がしないでもない一滴の粒である。そんなものは呼ぶ人やタイミングやなんやかんやで、「私」であったり「川」であったり、「水溜まりのどこか」になるときもあれば「単なる水」であったりすることもあるだろう。

そう頷けることは、私を少し楽な気持ちにさせてくれる。私は今日も、ネゲントロピーとほとんど分からない文章とおばあちゃんみたいな甘味を食って生きている。ええやん。