日々のあはい

貧乏人、本を読んで暮らす

読書ノート(2)

4月の読了本、2冊目

 ブログを書いたり読んだりすることに時間を割いたのもあって、4月は3冊しか本を読めなかった。せめて4冊と思わないでもないが、3冊ともとても面白かったので物足りなさは感じなかった。我ながらよい選書だったと思う。特にこちらの本、内容にも文章にも強く惹き込まれるところがあり、図書館で借りたものなのだが、いつか購入し、何度でも再読したい。

 何かが在るということ。つまり私が、あなたが、女が、猫が、言葉が、思い出が、傷が、風が、木が、森が、時間が、今が、存在すること。当たり前すぎて普段、意識にも上らないような「在る」とは実は奇跡のように不思議なことだ、と著者は言う。存在というおかしな現象について、どこまでも見つめていくような一冊である。中心となるのはハイデガー存在論だが、幅広い。

 広大な宇宙空間を、秒速四キロメートルで驀進するちっぽけな惑星のうえに、それもその長大な歴史のほんのわずかばかりの間隙のなかで、たまたまうみおとされた人間の存在に、必然的な存在理由や目的があるとかんがえることのほうが、どだい無理な注文である。(中略)存在に、しかるべき起源や根拠や目標があるかのように見立てる「存在のシナリオ化」は、人間のけなげな幻想がうみだす一種の生活の知恵。このことは今日では、陳腐なくらい自明な常識に属していよう。それを否定する気など、筆者にはまったくない。

 けれど、そのさきがあるように想う。あるいは、だからこそ裏語りされていることがあるようにおもう。

 森羅万象が「在ること」に、究極的な理由や絶対の根拠などありはしない。私といういきもののどんな役割も性別も名前も、突き詰めれば外側から付け加えられたものにすぎない。私たちはみな無根拠にここにいる。無根拠、言い換えれば無底である。存在には底がない。あるいは存在こそ底である。たとえば瓶の底は瓶のからだや中の水を支えているが、瓶の底それ自体に底はない。存在も同じで、それ以上の何を持ち出すこともできはしない。存在の本質は無根底である。

 あるいは、存在とは火のようなものである。発火すると同時にロウソクの芯を燃やして、消滅へと向かっていくロウソクの火だ。生成と消滅、排除しあうふたつのベクトルが同時同一の現象として成立しなければ火は存在し続けることができない。

火の生起、つまりは森羅万象の存在とは、在化と非在化との〈間〉に裂開する相互闘争現象そのこと、ということになる

つまり在化/生成と非在化/消滅の二択で前者を「存在している」というのではない。両方を包含し、かつ非統合であること。存在とは「滅びのなかの生成」なのだ。

 と、こんな風にひたすら存在について考えていく内容なのだが、読み進めるごとに、存在とは実はあやふやで頼りなさげなへんてこなものだったのか、と思えてくる。そして、それはそんなに悪いことではないはずだとも。 思うに私たちは普段は意識をしないだけで、本当は自分というものの拠り所のなさにも、何かを得ると同時に何かを失いながら生きているのだということにも、いつも、ずっと気付いている。だから、自分の存在を無明から浮かび上がらせるような確からしい物語を探しながら生きているのだ。

 余談だが、本書の3分の1くらいは行きつけのファミレスで読んだと記憶している。モーニングの豚汁をすすりながら存在のあわいについて想い馳せる時間には不思議な味わい深さがあった。私の場合、難しい本ほど外で読んだ方が捗る気がする。ガストの塩麹豚汁、オススメ。

4月の読了本、最後の3冊目

 初伊坂である。というか、私は読書が趣味になってから間もない上に読むのが遅いので、大抵の本は初ナントカである。

 私たちみんな同じように「私という存在」の寄る辺なさを抱えているのだとしても、どんな物語を杖に生きていくかは人それぞれのはずである。それなのに、私たちはなにしろ頼りない「存在」なので、分かりやすい物語などを見つけるとついその中に飛び込んで、自分を物語に同化させることで安心したくなってしまう。私とあなたが同じひとつのシナリオの中に在るのなら衝突は起らない。あなたの存在を探すことも、あなたの物語を想像することだって、必要ない。それはきっと、ひどくさびしいことだ。そして結局のところ私は私を「やるしかない」という現実は、シビアではあるかもしれないが、そんなに悪いことではないはずなのだ。