読み慣れない本を読む
最近、哲学の本が好きで図書館でしょっちゅう手に取るのだが、基本的な知識や読解力がまったく足りていないのだろう、何が書かれているのかわからないということが頻繁にあり、本を開いては挫折し開いては挫折し、たまに読了するが開いては挫折し…を繰り返し続けている。シンプルに難しい。超難しい。
ただでさえ自由な時間が少ない社畜なのだから、身の丈(いやな言葉だなあ)にあった読みやすい本を選べばいいのに、と自分でも思わないことはない。なにしろ哲学の本を1冊読む間に、本棚に眠っている小説を3冊は読了できるはずである。その3冊はきっとずっと読みやすくて、わかりやすくて、読後感もはっきりしていることだろう。少なくとも、難解すぎて「このページの文章、何を言ってるのか1行も理解できないが…?」とまでなることはまずないはずだ。たぶん。
それでも哲学の本を毎月、手に取る。いくら難解といっても1冊全部まるごと理解できないわけではないし、すごく大切なことが書かれていると思うからだ。また、自分の中にはない言葉や知識や考え方との出会いは、時に新しい自分に気付かせてもくれる。あるいは、忘れていた自分の一面を思い出せてくれることも。わからないなりに読み続けていくうちに、自分が、ひいては世界が今までとは少しだけ違う生き物のように思えてくる。楽しい読書体験だ。
わからなさを抱えてゆくこと
自分の中のわからなさを、今までずっと雑に扱ってきたように思う。向き合うとか逃げ出すとか以前に、自分にはこれがわからない、理解できないという物事、感情を、ろくに発見さえせずにいい歳まで生きてきたのではないか。酷い話だ。それでもようやく、恥や恐怖ではなく楽しみながら、「わからない」と付き合うことができるようになってきた。
思うに、時間や心に追われながら忙しなく生きていると、どんどん「わからない」がしんどくなる。簡単でわかりやすい何かに丸ごと吞み込まれてしまいたくなる。右か左か白か黒か、こっちが勝ちでそっちは負けで、ハイ論破、終了ですとやりたくなるときがあっても仕方がないのかもしれない。しかし哲学の本を読んでいると、世の中はっきりした答えを持っているものなど実はほとんど存在しないのではないか、と考えさせられるのだ。また、誰にとっても明確な答えや理由がすぐに出てくるというのは、本当はそれほどいいことではないのだろうとも。