日々のあはい

貧乏人、本を読んで暮らす

随処作主には程遠い

真冬になるとそこそこ雪が積もる街に住んでいるのだが、こんなにあたたかい2月はおそらく人生初である。水道管凍結の心配をせずに済むし、毎日歩いて通勤できる(靴だってスニーカーでいい!)し、ダイニングキッチンのはちみつやオリーブオイルがぜんぜん凍っていない。すごい。毎年こうであれ。などと言っていたら、スマホにYahoo天気予報からの通知が届いた。「明日の寒暖差に注意 10℃低い予報です」、アッハイ。短い春だった。明日は歯医者に行かねばならないので、せめて風がないといい。

寒暖差や気圧にやられてか、今日は1日中、酷い頭痛に苦しめられた。せっかくお休みだったのに。ままならない。ほとんどの時間をぼんやりスマホをいじることで過ごしてしまい、久しぶりにやらかしたな、と少し憂鬱になってしまう。

当たり前の話だが、休日は休日であるというだけでは自由時間とは言えない。たとえば同僚曰く、たまの休みも仕事の疲れがとれなくて何もできない。仕事が原因で身体が思うように動かない(ないしはそう思ってしまう)ということは、休日であり仕事をしていないにもかかわらず仕事に拘束されている、ということになりはしないか。あるいは今日の私のように体調が優れないとか、理由は特にないがぼんやりしてしまったという場合でも、自分の意思の及ばぬ時間は休息や自由というよりも単に空白の手触りがする。私の行動管理好きの理由、毎日のToDoリストやら家計簿やら1週間の献立表やら、とかく生活の枠組みを作りたがるのも、どうやらそのあたりが原因である。根がズボラな私はやりたいことを明確にしておかないと簡単にブランクタイムに支配されてしまう。要は主体性を確保することである。今日、頭痛が酷いなら酷いでそれなりの過ごし方があっただろう、と日が暮れた頃にようやく少し背筋を伸ばした(伸ばした結果、今こうしてブログを書けている)のだが、そういうことなのだ。精進せねばなるまい。

ところで「自由」というのは仏教用語でもある。「自己に由る」、である。「自己こそ自分の主である。他人がどうして主であろうか。自己をよく調えたならば、得がたき主を得る」。自己を制し、自己を頼りとする生き方。

 心的状態が錯乱することなく、冷静に受けとめて、自分で決定するとき、それが〈無依の道人〉(こだわりの無い実践者)とよばれるものになる。そこで創造的主体性が発揮される。それは「随処に主となる」境地である。

「自己の探求」中村元

仕事疲れが溜まるのや天気がヘンテコなのを、責めたり嘆いたりしても(こだわっても)何も変わらない。自分の身に起きてしまったことは、もはや自分の問題でしかない。自己なんて大概あやふやなものと思うが、それでも信じるしかないというある種の開き直りや前向きさに、もっと早くスイッチできればいいのだが。少なくともできるようになる、と信じながら暮らしていたい。

汝自身を信頼せよ。どの心もその鉄の弦の調べにしたがって震動する。

「自己信頼」ラルフ・ウォルドー・エマソン