日々のあはい

貧乏人、本を読んで暮らす

読書ノート(1)

ノートとブログと

 本の感想を書くためのノートを用意すべきか?と、結構長いこと迷っていたのだけれど、ブログがいちばん合っているように思えてきたので、何年だかぶりにはてなブログを開いている。懐かしい、という気持ちにはあまりならず、むしろ新鮮ささえある。当たり前だがずいぶん変わった。はてなも変わったし私も変わった。

 はてなを去ってからの10年近くの間は、場所を変えてブログを書いていたのではなく、Twitterで気合いの入ったツイ廃(Twitter廃人)をやっていた。Twitterの、ゆるくゆるく他人と繋がっている、あの特有の居心地が昔は(そう、昔は)とても好きだった。まとまった文章はほとんど書いてこなかった。なんなら1ツイートの最大数140文字ぽっちだって、書くことはあまりなかったような気がする。特にこの1年は「仕事疲れた」だの「ごはんがうまい」だの、まさに「つぶやき」のツイートばかりだった。今年に入ってからは、それすらもしていない。何故かと問われても明確な答えは出てこないのだが、たぶんちょっと窮屈になったのだ。長く居すぎたのかもしれない。でも、それだけとも思えない。はてなも私も、たぶんTwitteもずいぶん変わったのだ。

 あとは去年の7月から毎日、ノートに日記をつけている。日付と天気、起床時間と就寝時間、体調がどうだったか、何を思ったか、何をしたか。日々の記録を朝と夜、2回に分けて書くようになった。推敲も何もなく、ただただその日その時の自分を書き留めるためだけの、自分のための文章だ。

 そういうわけだから、誰かに読まれることを考えた文章をしばらく書いていないし、書ける気も正直あんまりしていない。ついでに言ってしまうと、こんなこと(はてなにいない間のこと)を書くつもりもぜんぜんなかったので、なんでこんなこと書いてんだろと首を傾げながらキーボードを叩いている。先行きは大いに不安である。

 日記帳と自分だけの世界でペンを走らせているのとは、いろんな意味で違うこの書き心地を愉快に思い始めてもいる。とにかく楽しくやっていけたらいいと思う。ここらでひとつ世界を広げてみるのも悪くない。

4月の読了本

 たぶん子供の頃から「共感」が苦手だ。共感をすることも共感をされることも、人より少ない子供だったのじゃないかとぼんやり思う。今だいぶマシになったと思えるのは、自分のそうした特性についてしっかり自覚があるからだろう。私は周囲から浮きがちな人間である。昔からずっとそうだった。10人中9人が同じ感想を持つ出来事があったとして、はみ出す1人は大抵、私である。そうしたズレを知ったことによって、「共感」に歩み寄る努力も不器用ながらできるようになったのだと思う。苦手な観念だとしても、だからこそ人一倍たいせつにしなくてはならないだろう。

できるだけ共感をはたらかせて、よいと感ずるもの(価値あるもの)についていって、その過程で生ずる差異(違和)から、自分自身へもどって自分がなんであるかを見つけだす(p.71)

 他者への共感は、自分を発見することに繋がっていく。自分の中に閉じていては、自分は見えないのだ。「共感から共鳴へ」という章題が印象深い。共鳴。外からの刺激を受けて、より大きく、広く響いていくイメージ。共感すること以上に、共感しようとする意思、自分以外の何かへと向かおうとするその意思の広がりを忘れずにいたい。「差異(ズレ)」を恐れずに「できるだけ共感をはたらかせて」いたい。

 また、「単純なものは複雑なものを圧縮する」という話では、仕事や昨今のTwitterランドに思いを馳せたりなどもしてしまった。文脈はぜんぜん違うが。

状況とそれに対峙する主体(の自覚)、両面の煮詰まりとして、単純なところへ自分が圧縮される、されざるをえない、という思いが湧いてくる(p.165)

 複雑なものを複雑なままで抱え込むのは(ましてやそれが自分だけの感情や問題ではないのなら)大変なことだから、簡単に見えるかたちへ押し込めたくなってしまう。広く大きく在ることの困難を思った。