その言葉は、いつ誰が誰のために
駅前でいろいろイベントがあると聞いたから早番を希望したのに、朝は土砂降りの雨、夜は冬のような冷たさの風に晒されて、退勤後に遊ぼうという気分にはまったくなれず、真っ直ぐに帰宅した。頭が痛くなってきたので、下手に外出しなくて正解だ。今夜は、天気予報によれば明日も、異様に寒い。今日明日はどこかしら調子が悪くて当たり前、くらいに思っておこう。
Amazon感謝祭でセール品を漁りたい欲をぐっと堪えながら本を開く。移動時間や休憩時間を使って『<業>とは何か: 行為と道徳の仏教思想史 』を読み進めつつ、『道元思想を解析する: 『正法眼蔵』データベースが示す真実』をぽつぽつと読み直し。いつの間にか並行読みができるようになってきた。やはり必要なのは慣れだったか。
ひとつ言えることは、道元自身は「修証」あるいは単独で「修」・「証」という用語を使用してはいるが、「本証妙修」という一続きの用語は、「弁道話」でも、また『眼蔵』全巻においても、一度も使用されていない。
また「本証妙修」という一続きの用語は、誰かの「造語」にほかならないが、「本証」および「妙修」という語も、「証上の修」という語も、その用法が出てくるのは「弁道話」のみであり、七五巻『眼蔵』や一二巻『眼蔵』にはまったく出てこない。
最初、読んだ時「ええ……」って声に出ちゃった。そ、そうなんだ……。この「本証妙修」の件に限らず、文章や言葉の背景を知るって大事だなあと改めて思わされる一冊だったなあ。知らないことばかりなのは仕方がないとしても、知らないことばかりである、ということに無関心にならぬよう気を付けねば。